なりそこない

正常にも異常にも、幸せにも不幸せにもなりそこなった存在

向こう側の私

 プリクラは好きではない。細かいセルの中から微笑む自分の姿は、どうしようもなく気持ち悪く感じる。というか、写っている人影が自分だとはどうしても信じられない。それほど「盛れ」ているのかと問われると、決してそうではない。ただのっぺりと、画一的な、確かな存在のない影のように思われるのだ。

 今日は髪を切った。肩甲骨の下まで伸びていた髪は、ばっさり切られてショートボブになった。毛先は紫、前髪も一筋だけ同じ色に染めた。私の形は、昨日とはまったく変わってしまった。しかしそれでも、鏡の向こうから覗きかえしてくる私はやはり私なのである。形だけではない、確かな存在としての私をそこに見つけて、少しうれしくなった。

 そういえばこれまで長い間、私は鏡の中の影をどうしても私自身だとは信じられないでいた。指先でそっと鏡にふれるひやりとした感触と、鏡の向こうからも影の指先が鏡にふれている光景をふたつ併せて初めて、その影と私のつながりを事実として確信するのである。それでもやや納得がいかないような感は残るのだが。

 形と中味とがばらばらであれば、形が少し変わるだけで自己が変性してしまったような気がするし(形そのものが自己)あるいは自分の形を他者であるかのように感じることもある(形は自己とは別物)

 髪を切ったあとに覗き込んだ鏡。少しくらい形が変わったところで、同一性を失うことはなかった。私は最近になってやっと、自分の形と中味を同一のものとして受け入れはじめたようなのである。

 プリクラは形をきれいに整えてくれる。だが、そこからは私の中味がすっぽりと抜け落ちてしまっている。別にプリクラが悪いのではなくて、単に私が静止画のなかに自己を閉じ込める術を知らないだけなのかもしれない。そういえば私は写真を撮られるのが全般に苦手である。しかし……、しかし最近のプリクラは見た目を美化する機能を発達させすぎているのではないかと、、、そうは思わないだろうか?

ひさしぶりだね。を発声する直前は、吐きそうに憂鬱だけれど

 久しく離れていたものに、再び入っていくことを思うと憂鬱になる。試験期間のため一か月ほど行かなかったアルバイト先に、久しぶりに出勤する日の前夜なんて最悪。しばらく訪れていなかった部室には足を向けるのが億劫だし、遠くに住んでいる友人と会う約束もどこか不安を掻きたてる。こういう感覚はきっと、大なり小なり多くの人が共有できるだろう。(あれ……、できない?やっぱり、できる?かな)

 この不快感は当日に向けてどんどんと募っていく。その日の朝はベッドから起き上がるのが嫌で仕方ないし、そこへ向かう電車の中では吐きそうな気分で逃走経路をくりかえしシミュレーションしてしまう。緊張が最高潮を迎えるのは、その場にたどり着いてしまった瞬間。

 

「こんにちは、おひさしぶりです」

 

の一言はありえない粘度でもって喉の奥に絡みつく。とてもつらい。嫌い。

 ただ、その言葉さえ吐き出してしまって、相手と少し会話をすれば一気に楽になる。それから朝にはあれだけ憂鬱で仕方がなかったことを自然に楽しんでいる自分が見つけて、情けない気分で苦笑いする。私の憂鬱を返せ。これを毎回のように体験する。どうしても学習しない。いや学習しているからこそ、どれだけ憂鬱でもその場に向かえるのだけれど。

 だから私は基本的に行きつけの場所(お店なんか)を作るよりも、初めての場所に行くことを好む。他人に覚えられてしまうのが嫌なのだ。接客が放任的な大型店舗はありがたい。密着して接客されると、二度目に行くのはちょっとつらい。もっともこれは覚えられるかどうかよりも接客されるのが怖いだけかもしれないが。

 

 そんなこんなで明日は久々の出勤だ。やはりやはり、とても怖いような気がしている。ううぅ……(´・ω・`)

とてもとても眠たい午後に

 昨日は話題の『シン・ゴジラ』を観にいった。正確には、あてもなく映画を観にいったらちょうどいい時間帯にやっていたものがゴジラだったという話だが。私はこれまでゴジラの映画を観たことがなかった。ゴジラデビューである。面白かった。

 作中でゴジラが「世代交代を経ない進化」という謎すぎる能力を発揮していた。それはどうみても変態ではないか。しかしゴジラの体内には放射線が満ち満ちているらしいし、人間の8倍のゲノムサイズをもつとか。それならば遺伝子が突然変異を起こすスピードはおそらくかなり速い。

 

・ケモパシーなどにより、ある変異細胞と同じ変異を全身の細胞に起こさせられる

・数分のうちに、体を構成する全細胞が単一の変異細胞の娘細胞と置き換わる

 

のいずれかが起こるなら、変態ではなく進化となんとか称せるかもしれない。ただし、対象となる変異細胞をどうやって選択しているのかは不明である。結論を言うとゴジラは常軌を逸した存在なのだ。そしてそんなことは観る前からわかっている。

 

 図ったわけではなかったが翌日、つまり今日は8月6日。ヒロシマ。それからナガサキ、冷戦、原発、福島、たぶん他にもたくさん。。原子力のエネルギーは、正直なんだかよくわからない存在だ。原子物理学を一生懸命勉強したところで、歴史学や軍事論やエネルギー学やなんやらを一生懸命勉強したところで、それを真に理解することはできないような気がする、少なくとも私には。

 化石燃料をもくもくと燃やしてCO₂の温室でゆっくりと死んでいくほうが、暴走した原子力に存在ごと消されるよりも、まだ受け入れられるかなと思った。

 炭化水素を燃焼させたら二酸化炭素が発生する、というのは因果関係がはっきりしている。それが嫌なら燃やさなければいい。シンプルだ(もちろん、現実には複雑に要因が絡み合っているからこうはいかないかもしれないけれど)

 原子力の話を聞くと自分の能力を超えた力を手にした者がついには己を滅ぼすという、使い古された筋書きを思い出す。そいつはたいてい愚か者扱いされて笑われる役だ。笑われるのは(´・д・`)ヤダ、なのである。

 

 それでも科学は、前に進もうとしなくちゃならないと思うのだ。だからこの辺の話題には、非常にアンビバレントな立ち位置におります。原子力に限らず、遺伝子倫理なんかもね。絶対賛成/反対のどちらにもなれない。まあ、今はそれでいい。やっと学び始めたばかりなのだから、偏らないでじっくり向き合ったらいい。せっかくのモラトリアムなのだ。焦っても仕方がないだろう?

図書室の主

 自治体設営の図書館はどことなく居心地が悪い。すぐに読んでしまうから、と言ってなかなか本を買ってもらえなかった私にとって貴重な活字の供給地だったが、だからといって入り浸ることはなかった。

 代わりに私が愛したのは、学校の図書室だった。自治体の図書館に比べると蔵書数もはるかに少なく、読みたい本がないこともしばしばだったが、それでも空間としての居心地は素晴らしい。

 第一に図書室は過疎化しがちだ。昼休みに友達とのおしゃべりにも興じないで図書室に籠る人間は多くともクラスに1人いるかどうか。その1人にさえなれば、全部とはいえなくとも少なくとも人一人座るスペースくらいは私有地化できる。

 中学のころに至っては図書館担当の教員と非常に仲が良かったため、彼を中心に私とその友人、他学年の生徒たちが集まって騒いでいた。ちなみにほかに利用者はいない。

 私は教室の中に自分の居場所はないような気がしていたし、むしろ居場所をその中に求めることを拒否していた。代わりに私は図書室に居場所を探した。かしましい同級生たちを無言で拒む、聖域。はつらつとした彼等からは見向きもされない、埃っぽい宮殿。私にとって図書室は自分が主権を持てる唯一の場所だった。

 だから私は、自分がゲストの一人として振る舞うことしかできない自治体図書館に居心地の悪さを感じる。規模が高校までとは段違いの大学図書館にもまだ馴染みきれていない。私は図書「室」の主、なのだ。

わたし、あの娘、彼等、あなた。

「同性愛は生物学的に間違っている」

 

といった言論を振りかざすやつは大嫌いである。同性愛者に対して全く歩み寄る気がない言論であることは言うまでもない。それだけでなく生物学、また生命に対して、その深遠を重機でザクザク埋め立てるような発言だと思うのだ。NO MORE 精神的自然破壊。一体生物学の何がわかるというのか。高校生物がちょっと得意な素人にだって、そんな言説こそ全くもって非科学的だということは明白なのだ。

 ところで性指向は不思議だ。とても興味深い。何がそんなに興味深いかというと「身体」と相反する「精神」が支配しているかにみえて、生命の本質と直結する領域だからである。「精神」はぷちぷちした灰色の細胞塊たる脳を土台としている以上、生物としての制御を受けるのは当然だということになる。しかし現代の科学技術をもってしても個々人の「精神」を完全に解き明かすことはできないし、たぶんこれからもできない。性は科学の究極目標であって、同時に科学の立ち入りを許さない領域でもあるのだ。

 それでもどうやら性指向を決める遺伝子というものが存在するらしいと分かっている。部分的に脳を雄化⇔雌化する酵素(を支配する遺伝子)に変異が生じると、変異個体(性的少数派個体)になったりする。要するに、脳内の「恋する」部分だけが脳の別の部位や身体の性(たとえば雄)と逆転した(たとえば雌になっている)とき、雄であるその個体は別の雄に求愛するゲイ個体になる。そのような遺伝子としてサトリ遺伝子というものが見つかっているらしい。ショウジョウバエの話だ。

 このモデルだけでは性的少数者の抱える問題を何も説明できたことにはならないかもしれない。だが、同性愛個体は変異体の一種であったとしても生物学に反する存在ではない、と述べる根拠にはなるのではないか。そこ(変異体)への否定を拡大すれば進化のメカニズムまで否定できる……か?

 ちなみに自然界には同性愛個体や同性愛行動を行う個体が野生型の種もいるそうな。どういう仕組みで生殖を行うのか気になるところである。

 ここでは「sex」について考えたので「gender」についての議論はまた別である。そもそもこれは昨日今日読みかじったことをふわふわーっとまとめただけなので議論でさえない。ちなみに私の性指向は(自分の中では)不明ということになっている。性指向の問題に関心はあるが、当事者の意識は全くないので悪しからず。

優しい名無しさん:「人生は死ぬまでの暇つぶし」

 数年前に某巨大掲示板で見かけた書き込みが頭を離れない。いや、正確には原文と違った形で記憶しているのかもしれないが、とにかくこの文言は自分の最根底の行動指針となっている。

 

「人生は死ぬまでの暇つぶし」

 

なんと消極的で刹那的な考え方だろうとは思うが、生きているということに意味や目的を必要としないその態度に清々しさをおぼえた。この言葉を見出したのは、だから気が向いたときに自殺できる、という文脈だ。さすがにそれを肯うことはできないが、それ以来「人はいずれ死ぬのだ」という考えに伴う漠然とした恐怖は消えた。

 そんな考えを自分のなかに取り込んでから、将来のために何かをする、という意識がかなり薄い状態で生活している。先日まで三年間を塗りつぶすために高校生をやっていたし、大学受験は高校生である資格を保つためにやった。今日を塗りつぶすために私は大学生をやっているし、卒業してしまったあとはそのときでまた暇つぶしの方法を考えればよいだろう。

 そこに目的はない。意味すらない。生をただ、一連の事象にまで還元して捉える視線さえ導いてくれるような自己の存在に対する無関心。それが人生に対する最善の解だとは思わない。私にとっての最適解でさえないかもしれない。しかし、生には意味があるはずだという強迫観念を氷解させ、我々を自由にしてくれる発想の一つであることはきっと間違いない。

 

 元の書き込みをした方は、まだどこかで死なずにいるのだろうか。

欲にまみれて、生死

 ここ数日、これまで散々悩まされ続けてきた食欲と、食欲の代替として利用しまくっていた性欲が驚くほど落ち着いている。食欲については普通に三食採っているのでないわけではないのだが、毎日のように襲ってきていた過食衝動らしき苛立ちがかなり小さくなった。いわゆる夏バテなのだろうか。

 代わりに、というべきかはわからないが、ほぼ同じ時期からとにかく眠い。普段は休日でも七時前に起きてしまうことがほとんどだったのだが、ここしばらくの休日には気づいたら九時過ぎということもしばしばである。昨夜も普段より一時間以上早く就寝したくせに今朝の目覚めは悪く、日中にも眠気に襲われた。

 眠気によってパフォーマンスが低下することは事実だが、食欲が抑えられていることは私にとってかなり大きいメリットだ。増加した睡眠時間と同程度の時間を毎晩食行動などに費やすことを考えると、カロリーを摂取もなくむしろ休息できる睡眠は素晴らしいと感じられる。

 ここで連想されるのは、「生と死」である。食欲・性欲が「生」に対応するならば、眠ることは「死」そのもの。生の否定、死への耽溺。何も採らず、誰も愛さず、ただ棺のようなベッドの上で昏々と眠りつづけるというイメージは、私にとってとてもロマンティックだと思われるのだが、あなたにとってはいかがだろうか?

 ただ、私の変調はまったくもって正常の範囲に位置するため、このようなイメージと直接の関係はない。どうにもやめられなかった夜食を食べずに済んでいるというだけのことである。そしてこの状況に陥っている原因が全くわからないために、いつ元の状態に戻るかが不安だ。もしこれが私にとって不調であるのだとしても、治ってくれるな。美しいイメージと自己をすこしでも同一化させたいと願うのはいけないことだろうか?