なりそこない

正常にも異常にも、幸せにも不幸せにもなりそこなった存在

向こう側の私

 プリクラは好きではない。細かいセルの中から微笑む自分の姿は、どうしようもなく気持ち悪く感じる。というか、写っている人影が自分だとはどうしても信じられない。それほど「盛れ」ているのかと問われると、決してそうではない。ただのっぺりと、画一的な、確かな存在のない影のように思われるのだ。

 今日は髪を切った。肩甲骨の下まで伸びていた髪は、ばっさり切られてショートボブになった。毛先は紫、前髪も一筋だけ同じ色に染めた。私の形は、昨日とはまったく変わってしまった。しかしそれでも、鏡の向こうから覗きかえしてくる私はやはり私なのである。形だけではない、確かな存在としての私をそこに見つけて、少しうれしくなった。

 そういえばこれまで長い間、私は鏡の中の影をどうしても私自身だとは信じられないでいた。指先でそっと鏡にふれるひやりとした感触と、鏡の向こうからも影の指先が鏡にふれている光景をふたつ併せて初めて、その影と私のつながりを事実として確信するのである。それでもやや納得がいかないような感は残るのだが。

 形と中味とがばらばらであれば、形が少し変わるだけで自己が変性してしまったような気がするし(形そのものが自己)あるいは自分の形を他者であるかのように感じることもある(形は自己とは別物)

 髪を切ったあとに覗き込んだ鏡。少しくらい形が変わったところで、同一性を失うことはなかった。私は最近になってやっと、自分の形と中味を同一のものとして受け入れはじめたようなのである。

 プリクラは形をきれいに整えてくれる。だが、そこからは私の中味がすっぽりと抜け落ちてしまっている。別にプリクラが悪いのではなくて、単に私が静止画のなかに自己を閉じ込める術を知らないだけなのかもしれない。そういえば私は写真を撮られるのが全般に苦手である。しかし……、しかし最近のプリクラは見た目を美化する機能を発達させすぎているのではないかと、、、そうは思わないだろうか?