なりそこない

正常にも異常にも、幸せにも不幸せにもなりそこなった存在

選んだ本は君のこころを外界に表現してくれる強力なツール、かもしれない

 ハイティーンくらいの子供たちは、どこか悪ぶりたがるものである。些細なところでは、自分がいかに勉強をしていないか自慢するだとか、法律違反かつ大して味もわからないアルコール飲料を摂取してみるだとか、すでにティーンを通り越してしまった人にも憶えがあるのではないかと思う。それは人とは違う自分を演出する、尊重を叫ばれるがゆえに見失ってしまった個性を救い出す、子供たちのささやかで必死の抵抗である。

 それゆえに引き起こされる行動は人それぞれだ。私の場合、それは選ぶ本に表れる。ドストエフスキーの小説なんかを読みはじめる、というのは中二病の典型症状でもあり、選ぶ本で自己主張することはかなり一般的な方法だろう。そこで私が走った道は、古典エロ小説、だった。

 はっきりとその傾向が表れはじめたのは高校時代である。そのきっかけは別に古典でもなんでもない。嶽本野バラの「シシリエンヌ」。高校の図書館の隅でこっそり、淫靡な言葉にあふれたページをめくる快感。中学の頃にあからさまなエロラノベやら携帯小説を持ち込んでいる同級生がいたが、それとは違う。知識のない人間が傍目に見てもわからない官能に耽溺する、それも学校という公共の場で……。

 そこに明確な性的快感が伴えば、変態、と形容されるのかもしれないが、実際は「このシチュエーションなんかえっちじゃない?ちょっと素敵じゃない?」とどこにも向かわない不毛な計算がはたらいていた。つまりはおかしな方向に振れた、ただのナルシズムである。そこからは谷崎・ナブコフなどそこそこメジャーどころを図書館の隅(勝手に指定席化していたヒーターである)でこっそり読んだ。他人に見られたいような気もしたが、恥じらいを忘れてはシチュエーションの価値が下がるので、あくまで隠れて読まねばならない。ただのイタいやつである。(※ちなみに当時からその自覚はあった)

 結局それが私の自尊心を保つために果たしてくれた役割はよくわからないところであるが、副作用として私は級友たちが「SかMでいえば、どちらのタイプ?」なんて話題で盛り上がっているのを横目で眺めつつ、『刺青』のことを思い出してニヤけるような女子高生になった。友達はちゃんといたのでご心配なく。

 

 高校卒業から数か月たって大学生になった私は、そろそろと澁澤龍彦に手を伸ばした。高校生活最後に手を出した寺山修二からの関連である。私が行きつけている書店では、澁澤龍彦著作が置いてある一帯が耽美系作品のコーナーになっている。そして本日。とうとう『ソドム百二十日』……著者マルキ・ド・サドサディズムの語源となったサド侯爵の著作を衝動買いした。どうやら自分はただのエロ古典でなく、異常性癖系作品にコミットしているらしい。レジに中島らものエッセイと一緒に持って行った。普通に緊張した。

 

 そそくさと店を出て自転車を開錠していると、若い男性が道端で泣きながら電話していた。何があったのか知らないけれど、一緒に本、読みませんか?私でよければおすすめの本、紹介しますよ。

七月蝉の

 うるさい、と言えば、五月蠅い、と書くが、七月蝉い、と書くほうが適切なのではないだろうかと夏になるたびに思わされる。もう少し前のことになるが、梅雨明けの発表が出た翌朝、突然蝉たちの声に確かな圧力を感じるようになった。あまりにも正確なその季節感に、義理堅いことだと多少感心した。

 

蝉の声は、脳に響く。

 

 蝉たちの溜まり場になっているであろう木立の下なんかに行こうものなら音の洪水に溺れそうになって、果たして音は自分の外側に存在するのか内側から湧き上がるのか、判断がつかなくなるのである。それは、己の精神が異常の側におおきく傾く瞬間だ。

 日常において我々は、きっと正常と異常の境界線上でゆらり、ゆらりと踊っている。いつもと同じ通学路、完全に日常に溶け込んだ風景のなかで蝉の声が脳を掻きまわす瞬間、境界線のあちら側の空気が我々をなで……、その体験は我々をどうしようもなく不安にさせる。

 

短い夏のあいだだけ、日常に入り込む異界。

しかしその風はどこか快い。

そうして私は今年も、その瞬間を愛でずにはいられないのである。

 

自己顕示欲の行方

他人に自分の考えを伝えようとするとき、言いたかったことは決まって何万光年ものかなたまで飛んでしまう。重たく渦巻いていたはずの感情まで一緒に失われてしまうから、互いにどう思っているのか話し合おうとするときにはただ、金魚のように口をぱくぱくさせることしかできないまま「問題解決」が終わってしまう。そのまま納得できればそれはそれで良いかもしれないが、一人になった途端に回りだした思考が感情を再生産しやがる。それでも今更話を蒸し返すこともできない。不便である。

 ちなみに今もキーボードに向かった瞬間、書こうと思っていたことがきれいさっぱり宇宙の果てに飛んで行った。NA○Aもびっくりの発射成功率。初めての大学の試験前にわざわざ新規登録してまでブログを始めたということは、それなりに強い動機があって然るべきだと思うのだがその動機さえすでにわからなくなっている。記憶力がマジでやばいことになってアレすぎるのでもうアレである。果たして一体どれだと言いたいのか。

 ちなみに私は全く意味のない会話は問題なくできるので別にいわゆるコミュ障ではない、と思う。コミュ障という言葉はネット用語だと思っていたが、今や一般的な言葉となって広く聞かれる。本来は「コミュニケーション障害」を縮めて「コミュ障」のはずだが、今までに出会った自称「コミュ障」のなかには「コミュニュティ-形成障害」と言うほうがしっくりくる人物がちょいちょいいる。「コミュニケーション障害」は会話パターンを覚え、話す・聞く技術を磨けばある程度克服できるだろうが、「コミュニュティー形成障害」は相手に心を開けるか否かが問題になるのではなかろうか。心の開き方にもコツやら技術やらがあるのかもしれないし、探せば怪しげな自己啓発アドバイスがざくざく出でくる気もするが、結局のところ心を開くか否かは本人の意思次第だろう。

 

自称コミュ障の諸君、今一度自分の孤独が本当にコミュニケーション能力の欠如によるものか自問するがいい。心を閉ざすゆえに本来持っているコミュニケーション能力の活用を拒否しているものが、2人に1人か100人に1人かその辺は定かでないものの、混ざっているのではなかろうか?自分から他者を拒みながら「コミュ力の欠如」に逃げこんではいないだろうか?

 

まあ自覚したところでどうすることもできないだろうと、私は今のところ結論しているわけだが。そして上記のような思考の末にやはり、ときどきはコミュ障を自称するわけである。お前もかよ、はい。

 

つまりこのブログは、どうしようもなく積みあがった思考を処理するために構成された埋立地のような場所である。現実では表情やら感情の起伏が平坦だと言われがちな筆者だが、中身はひどい気分屋なので回ごとに文体が全く変わる……かもしれない。さんざん自分を表現することが苦手なようなアピールをしたくせに、その自己顕示欲は際限なく膨れ上がってここにぶちまけられるのである。その姿は泣きそうなほど滑稽で、どうしようもなく可笑しいことくらい、自分がいちばんよくわかっているのである。