なりそこない

正常にも異常にも、幸せにも不幸せにもなりそこなった存在

七月蝉の

 うるさい、と言えば、五月蠅い、と書くが、七月蝉い、と書くほうが適切なのではないだろうかと夏になるたびに思わされる。もう少し前のことになるが、梅雨明けの発表が出た翌朝、突然蝉たちの声に確かな圧力を感じるようになった。あまりにも正確なその季節感に、義理堅いことだと多少感心した。

 

蝉の声は、脳に響く。

 

 蝉たちの溜まり場になっているであろう木立の下なんかに行こうものなら音の洪水に溺れそうになって、果たして音は自分の外側に存在するのか内側から湧き上がるのか、判断がつかなくなるのである。それは、己の精神が異常の側におおきく傾く瞬間だ。

 日常において我々は、きっと正常と異常の境界線上でゆらり、ゆらりと踊っている。いつもと同じ通学路、完全に日常に溶け込んだ風景のなかで蝉の声が脳を掻きまわす瞬間、境界線のあちら側の空気が我々をなで……、その体験は我々をどうしようもなく不安にさせる。

 

短い夏のあいだだけ、日常に入り込む異界。

しかしその風はどこか快い。

そうして私は今年も、その瞬間を愛でずにはいられないのである。