なりそこない

正常にも異常にも、幸せにも不幸せにもなりそこなった存在

自己顕示欲の行方

他人に自分の考えを伝えようとするとき、言いたかったことは決まって何万光年ものかなたまで飛んでしまう。重たく渦巻いていたはずの感情まで一緒に失われてしまうから、互いにどう思っているのか話し合おうとするときにはただ、金魚のように口をぱくぱくさせることしかできないまま「問題解決」が終わってしまう。そのまま納得できればそれはそれで良いかもしれないが、一人になった途端に回りだした思考が感情を再生産しやがる。それでも今更話を蒸し返すこともできない。不便である。

 ちなみに今もキーボードに向かった瞬間、書こうと思っていたことがきれいさっぱり宇宙の果てに飛んで行った。NA○Aもびっくりの発射成功率。初めての大学の試験前にわざわざ新規登録してまでブログを始めたということは、それなりに強い動機があって然るべきだと思うのだがその動機さえすでにわからなくなっている。記憶力がマジでやばいことになってアレすぎるのでもうアレである。果たして一体どれだと言いたいのか。

 ちなみに私は全く意味のない会話は問題なくできるので別にいわゆるコミュ障ではない、と思う。コミュ障という言葉はネット用語だと思っていたが、今や一般的な言葉となって広く聞かれる。本来は「コミュニケーション障害」を縮めて「コミュ障」のはずだが、今までに出会った自称「コミュ障」のなかには「コミュニュティ-形成障害」と言うほうがしっくりくる人物がちょいちょいいる。「コミュニケーション障害」は会話パターンを覚え、話す・聞く技術を磨けばある程度克服できるだろうが、「コミュニュティー形成障害」は相手に心を開けるか否かが問題になるのではなかろうか。心の開き方にもコツやら技術やらがあるのかもしれないし、探せば怪しげな自己啓発アドバイスがざくざく出でくる気もするが、結局のところ心を開くか否かは本人の意思次第だろう。

 

自称コミュ障の諸君、今一度自分の孤独が本当にコミュニケーション能力の欠如によるものか自問するがいい。心を閉ざすゆえに本来持っているコミュニケーション能力の活用を拒否しているものが、2人に1人か100人に1人かその辺は定かでないものの、混ざっているのではなかろうか?自分から他者を拒みながら「コミュ力の欠如」に逃げこんではいないだろうか?

 

まあ自覚したところでどうすることもできないだろうと、私は今のところ結論しているわけだが。そして上記のような思考の末にやはり、ときどきはコミュ障を自称するわけである。お前もかよ、はい。

 

つまりこのブログは、どうしようもなく積みあがった思考を処理するために構成された埋立地のような場所である。現実では表情やら感情の起伏が平坦だと言われがちな筆者だが、中身はひどい気分屋なので回ごとに文体が全く変わる……かもしれない。さんざん自分を表現することが苦手なようなアピールをしたくせに、その自己顕示欲は際限なく膨れ上がってここにぶちまけられるのである。その姿は泣きそうなほど滑稽で、どうしようもなく可笑しいことくらい、自分がいちばんよくわかっているのである。